太閤記

■放送期間:1965 (昭和40)年1〜12月
■原作:吉川英治
■脚本:茂木草介
■出演者:緒形拳 藤村志保 高橋幸治 石坂浩二
■見所:劇中で歴史知識を紹介したり、ドラマの舞台の現在の様子を実写で見せるなど、斬新な手法を取り入れた。

原作は吉川英治の小説『新書太閤記』。
主演には緒形拳が抜擢され、人気を博した。
また、高橋幸治演じる織田信長にも人気が集まり、「信長を殺さないで」という投書がNHKに殺到し、本能寺の変の放送回が延期されたという逸話がある。
平均視聴率は31.2%、最高視聴率は39.7%を記録した(ビデオリサーチ調べ・関東地区)。
大河ドラマが初めて日曜午後8時台の放送となった作品でもある。

当時、新大型時代劇と呼称された大河ドラマは2作で終わるはずだったが、「せっかくだから新人だけで、もう1作だけ作ろう」ということになり、この作品はスター総出演の前2作とはガラリと変わって、新人を抜擢してのキャスティングとなった。

主演の緒形拳は、「新国劇にサルに似たヤツがいる」という噂を聞きつけたスタッフによる抜擢だったが、前作『赤穂浪士』のスタッフだった大原誠は既に注目していて、吉田沢右衛門役に出演交渉していたが、舞台の都合で断られていた。
信長役の高橋幸治は、初対面で吉田直哉の前に現れた際、舞台出演のために金髪だったが、会った瞬間にはまり役だと確信したという。
しかし、スタッフには信長役も新人俳優にすることを不安視する声があり、吉田が会議に連れていった。
その際、高橋が大声で「信長です、よろしく」と挨拶し、スタッフはびっくりしたのち万雷の拍手になった。
これで信長役に決まったという(この「緒形秀吉」と「高橋信長」のコンビは13年後の大河ドラマ『黄金の日日』で復活した)。
三成役の石坂浩二も当時は大学生だったが、前2作において脇役として出演していた。

新人を登用したため、人件費が大幅に削減され、その分、大規模な合戦ロケに回すことができ、那須での桶狭間の戦いロケ、世田谷の砧にある国際放映第三、第四ステージに本能寺オープンセットを建て、ヘリコプターによる撮影を行うなどスケールの大きな画面作りに寄与した。
栃木県塩原で行われた10日間のロケでは、テレビ史上初のヘリコプターからの空中撮影が行われた。
ヘリによる撮影は、ロングだけでなく2メートル位まで降下してのアップ撮影も行われたという。
塩原ロケは、地元矢板市伊佐野の婦人会20人が、米三斗に野菜三貫を使って、にぎり飯二つと豚汁、おしんこの昼食を作ってくれた。
ロケは、放送年の3月に川崎市の柿生、5月には再び塩原で長篠の合戦、8月には長野県飯山市北竜湖で、高松城水攻め、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦などの収録が10日間行われた。
本能寺のセットは、第四ステージに本能寺表門・裏門、第三ステージに大廊下、本堂、中庭などが本建築並みに建てられた。

劇中、秀吉は「サル」と呼ばれ、回によっては秀吉が登場しないときもあり、そういう回では最後に「その頃、サルは備中高松の陣で」などとナレーションが入って終わるケースもあり、これも新人登用のドラマだったからできた芸当であった。

ドラマの骨子は、秀吉とねねの夫婦愛を描いたもので、中国戦線の秀吉が慰問する場面などがあり、その反面、秀吉初恋の人であるお市の方は3回しか登場せず、お市役の岸惠子は、居住地のパリから数日来日しただけで収録を済ませた。

また、淀殿と秀頼は最終回、彼女が秀頼の手を引いて大坂城の廊下を歩くシーンで唐突に初めて現れ「既成事実」として扱われている。

なお、原作では秀吉の天下統一までは描かれておらず、上記のシーンを含む終盤はオリジナルストーリーによって構成されている。

冒頭に新幹線が走るシーンでは「教育テレビと混信した」という視聴者からの電話が相次いだという。
時代劇で現代の映像を使用した事は、当時極めて稀だったためである。

「石垣の組み方」など劇中、解説のシーンがあったが、これは演出の吉田直哉がラブシーンを苦手としていたものの、「もっと、しっとりラブシーン撮りはったほうがよろしいわ」と脚本の茂木草介が台本の書き足しを拒否したため、苦肉の策として導入されたものであり、この解説シーンのため「社会科ドラマ」の異名をとった。

大河ドラマで殺陣指導を行っている林邦史朗はこの作品で初めて殺陣指導を行った。

なおこの太閤記以降、現在に至るまでNHK日曜日午後8時台は大河ドラマ枠となっている。
また当初は前述のようにこの作品で打ち切りにする予定であったが、方針変更により第4作目以降の大河ドラマも制作されるようになった。
ちなみに、第4作となった『源義経』には緒形も登場している。
(Wikipediaより)

 
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